
|
宮本 岳志(みやもと たけし) 日本共産党参議院議員(当選1回)
|
|
・ |
1959年12月25日和歌山市生まれ。 |
|
・ |
大阪府立岸和田高校卒業、国立和歌山大学中退。 |
| ・ |
自宅は大阪府岸和田市。家族は妻と小学校6年生の男の子、4年生の女の子。「三度の飯より」という祭り好き。
なかなかとれない余暇にはギター演奏、落語鑑賞などを楽しむ。スポーツではラグビー。今も議員連盟で試合もする現役。
|
|
| ・ |
総務委員会、予算委員会所属。
|
| ・ |
日本民主主義文学同盟員。
|
| ・ |
著書に、講座「青年」第2巻(清風堂書店刊、共著)、「宮本たけしのとっておき対談集」(大阪民主新報)。
|
|
|
1959年 |
銀行員の父と会社員の母の長男として和歌山市で生まれる。 のち、父親の転勤で大阪に引っ越し。
|
| 1965年 |
岸和田市立春木小学校に入学。
|
| 1972年 |
岸和田市立春木中学校に入学。
|
| 1973年 |
中学2年生(14歳)で、父親に連れられて原水爆禁止世界大会に初めて参加。
|
| 1975年 |
大阪府立岸和田高校入学。高校入学が決まってすぐ、4月に日本民主青年同盟に加盟。
|
| 1978年 |
青年運動のなか、18歳で日本共産党に入党。
|
| 1980年 |
高校を留年して卒業、大学入試で浪人を経験したのち、和歌山大学教育学部に入学。
|
| 1984年 |
民青年同盟の地区専従者に。
|
| 1993年 |
日本共産党中央委員会付属社会科学研究所非常勤研究員に。
|
| 1995年 |
参議院選の比例代表候補として立候補。
|
| 1997年 |
党大阪府常任委員に。
|
| 1998年 |
7月、大阪選挙区から参議院議員に初当選。
|
1959年、銀行員の父と会社員の母の長男として和歌山市で生まれる
市内高松にある前田病院で生まれました。のちにその目と鼻の先にある和歌山大学に入学することになるのですが、まだ知る由もありません。生まれたときから体は超ビッグ。3歳の時には和歌山県の「健康優良児コンテスト」で決勝まで残るほどでしたが、なんとあまりに体が重くて3歳にして歩けず、歩行テストであえなく失格。
父親の転勤で、大阪に引っ越し。岸和田市立春木小学校に入学
「なぜ?」にこだわる子どもでした。小学校五年生のとき「温度差による風の強さしらべ」で大阪府学生科学賞・優秀賞を受賞。六年生では、共同研究「熱気球の研究」で同・最優秀賞をとりました。新聞に初めて名前が載ったのがこのときでした。
岸和田市立春木中学校入学
「岸和田少年愚連隊」の作者、中場利一氏と同学年。この作品の中で当時生徒会が「丸坊主反対」を主張していたというくだりがあるのですが、実はこの主張をしていたのが私。「丸坊主反対」をかかげて生徒会長に立候補、初めて「選挙」にでて「立会演説」をしました。「丸坊主の押しつけは、身体の自由と表現の自由を奪うものであり生徒の基本的人権を蹂躙するもの」という厳しい演説だったのです。
原水爆禁止世界大会に初めて参加
第19回原水爆禁止世界大会は長崎で行われ、大会では最年少参加者として紹介もされました。原爆資料館を見学し被爆者の話を聞いて、たいへんなショックを受けます。そしてそれだけの悲劇を引き起こしたにもかかわらず、なお世界には5万発もの核兵器が蓄積されているという事実を知ったとき、いてもたってもいられない思いで平和運動に参加するようになりました。
(原水爆禁止日本協議会)
高校
中学校まではいわゆる「良くできる子」。テストでもだいたいいつも10番以内。ところが高校に入って「岸校始まって以来の落第生」に。ぐれる日々の中、フォークソング、ラグビー、そして高校生集会の運動(「広げよう友情と交流の輪を。見つけよう真の高校生活を。」)に情熱をそそぎました。このとき一緒にがんばっていた仲間たちは、仕事や立場はさまざまでも、今でも良き友人たちです。
日本民主青年同盟に加盟
中学時代から原水禁運動や平和運動に興味を持ってきたこともあって、高校入学が決まってすぐ民青同盟に加わりました。ですから正確に言うと「ぐれていたのが民青に入って立ち直った」という話ではなく、実は高校1年でぐれたとき、すでに民青同盟員だったのです。もちろん今振り返ると、民青の何たるかを当時は何もわかっていなかったのですが、民青に入っていたおかげで、その後高校留年をめぐっても、仲間から批判と激励をもらうことができたのでした。
日本共産党に入党
当時、大阪青学連事務局長や大阪原水協常任理事、大阪革新懇世話人などとして、青年運動、平和運動、革新統一戦線をめざす運動の先頭に立って活動していました。ともに岸和田障害者共同作業所づくりの運動に取り組んできた人たちの中に、日本共産党員がいました。正月早々呼ばれたところ、日本共産党に入党してほしいと話をされたのでした。
高校を留年して卒業、大学入試で浪人を経験
高校のフォークソング研究会で出会った2歳年下の妻が、高校では1学年下、それなのに大学には同期で入学、卒業は妻が先でした。このことだけとっても、私は妻にとても頭が上がりません。天王寺にある夕陽丘(ゆうひがおか)予備校に通った一年間。それでもやっぱり勉強はあまりしませんでした。
民青同盟の地区専従者に
今でこそ大学卒業にもそれなりに意義があったと思いますが、当時の私は教員養成系大学の教育内容に疑問を感じていました。地域の民青同盟の「高校生班」と一緒に、毎日勉強会をしたり、高校生集会などの活動に取り組んだりするうちに、このほうが自分に合っているのではないかと考えるようになり、民青同盟の専従職員としての活動を始めた(つまり民青で働きだしたのです。大学には行かなくなりました。中退の手続きをしたわけではないので、除籍ですね。1988年、最後に大学から連絡があった時には私はすでに民青同盟・大阪府常任委員で、結婚もしていました)のです。
|
COLUMN |
岳志のおもいでコラム vol.1 -落ちこぼれ高校時代-
|
|---|
岸校始まって以来の落第生

最後列右端の背の高い生徒が宮本岳志。岸和田高校に入学したころ。みんなより頭一つ高く目立ってました。
|
岸和田高校は大阪第9学区(岸和田市以南)で一応公立高校の中では一番の進学校とされています。中学校まではいわゆる「良くできる子」で、テストでも500人近くのうちだいたいいつも10番以内。ところが高校に入って「エリート意識」が崩壊します。「人間の値打ちはテストの点数や順位で決まるものではない」とひらきなおり、ぐれました。今思えば「なぜ勉強しなければならないか」わかっていないという点では、同じこと。「エリート意識」をコンプレックスにひっくり返しただけだったんですね。「勉強=テストの点数」という図式からまったく自由になれませんでした。
挫折、でも収穫も大きかった!
しかしこの、高校から大学にかけての時期、自分自身が得たものは、本当に大きかったと思っています。たとえそれが結果として間違いであったり未熟であったりしても、「自分が納得できるまでやってみる」ということの大切さ、「人は他人に言われてわかるものではない。自分がわかったとき、初めて本当にわかるのだ」ということ…。そしてなによりも、壁にぶち当たって悩んでいる人の気持ちが痛いように分かるようになったことは、最大の収穫だったと思います。また、おかげ様で高校の先生や同級生は(いろいろな意味で)今でも私を覚えてくれているし、同窓会に行っても「同窓生」が多いのでした。若い人たちには「人生の中の1年や2年なんてまったく取るに足りないもの、人生なんてたかが一回や二回の失敗で、だめになったり終わったり絶対にしない」ということを、私自身の経験から、伝えたいと思っています。
[an error occurred while processing this directive]
|