子どもの発達の弁証法とヘーゲル「精神哲学」
衆議院で文教委員会を担当することになり、あらためてもう一度教育学の勉強をと、教育学関係の書物を読みすすめてきました。和歌山大学教育学部の市川純夫教授のお書きになった「親と教師をはげます教育学」(たかの書房、1680円)という本に感銘を受けて先生にメールを差し上げたところ、「発達を見る姿勢」(学文社)という本もご紹介いただいて、これも一気に読み終わりました。
市川先生は「親と教師をはげます教育学」の冒頭、「人間観の崩れ」について、最近「体罰」をめぐって、学生たちから「かっとして叩いてしまうのはよくないが、教育効果を考えて行う体罰は教育の手段として許されるのではないか」といった意見が多く出されることを指摘しておられます。そして、私の恩師でもある故・西滋勝先生の次のような言葉を引いておられます。
「たとえば、教師が教室に行ってみると、何人かの子どもが障害児の子どもをからかい侮辱している。あるいは部落出身の子どもが差別的言辞でもってからかわれている。こういう光景を見たとき、激怒の余り思わず子どもたちに手をかけるということはありうるであろう。この場合、教師の怒りは私憤ではない。人権侵害に対する当然の怒りである。教師の激怒と彼が語った言葉は、子どもたちに強い印象として残るであろう。だが、教師が子どもをなぐったという行為については、率直にあやまるべきであろう。人権の大切さを教えるということと殴打するということは両立し得ないからである。」(和歌山県国民教育研究所『湯浅町教育調査』1985年)
市川先生は、この西先生の言葉を学生たちに紹介した上で、「教育効果をはかって冷静に他人の体に危害を加えることができる人間というのはそら恐ろしくないだろうか」を考えさせるといいます。あらためて市川先生の本の中で、私がまだ大学に籍を置いていたころの西先生の言葉に出会って、感慨ひとしおでした。
さて、市川先生によると、教育の出発点は子どもを「発達の観点」でとらえるということだと強調されています。そして、「発達の観点」とは、とりもなおさず子どもを弁証法的に見ることにほかなりません。たとえば子どもの「つまづき」を否定的にのみ見るのではなく、「つまづき」の中にこそ発達への契機を見るという観点などは、まさに弁証法そのものといえるでしょう。
また市川先生が「発達の法則性」として、親や教師は、次の段階のことができるという「タテへ発達」のみを発達と見て、同じことを繰り返している時期を「停滞」と見るが、それは「ヨコへの発達」ととらえるべきであり、そういった発達のモデルを「立体的ならせん状モデル」でとらえるべきであることを力説されているのもきわめて弁証法的な観点だと思います。
さて、そんな勉強を進めながら、この間久しぶりに鰺坂真先生を囲む「ヘーゲル哲学」の研究会に参加しました。ヘーゲル「精神哲学」(岩波文庫版)の63ページの終わりから5行目「さてしかし自我は…」以降です。ここは「精神哲学」の第一篇「主観的精神」の冒頭の概括部分、ヘーゲルにあっては「主観的精神」はA「心(Seele)または自然精神(Naturgeist)」、B「意識」、C「主観そのもの(独立的主観)」というように発展します。
そして、それぞれの段階に応じて、A.心は「人間学」の対象であり、B.「意識」は「精神現象学」の対象であり、C.主観そのものは「心理学」の対象になります。ヘーゲルにあっては「主観的精神の発展」というのものも、精神自体の絶対理念への発展過程ととらえるというきわめて神秘的な形態をとりますが、即自的、直接的な「心」から、対自的な、媒介された「意識」へ、そして「自己を自己の中で規定する精神」=主観そのものへの発展というのは、子どもの認識過程の発達を考えれば、まさしくぴったりと一致します。これは私が長年続けてきた哲学の勉強にとっても、思わぬ収穫だったと言えそうです。
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