「大洪水よ、わが亡きあとに来たれ!」とポンパドゥール侯爵夫人
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「大洪水よ、わが亡きあとに来たれ!」とポンパドゥール侯爵夫人

 この間、志位さんがサンデープロジェクトで紹介してから口の端にのぼるようになった「資本論」でマルクスが引用した言葉「大洪水よ、わが亡きあとに来たれ!」…この言葉が出てくるのは「資本論」第一部(1巻)第三篇第八章の「労働日」。第五節の「標準労働日獲得のための闘争。14世紀中葉から17世紀末までの労働日延長のための強制法」の中ほどに出てきます。(社会科学研究所監修、資本論翻訳委員会訳、新日本新書版なら、第2分冊、P.464)

 次のように出てきます。「どんな株式思惑においても、いつかは雷が落ちるに違いないということは誰でも知っているが、自分自身が黄金の雨を受け集め安全な場所に運んだ後で、隣人の頭に雷が命中することをだれもが望むのである。“大洪水よ、わが亡きあとに来たれ!”これがすべての資本家およびすべての資本家国民のスローガンである。それゆえ、資本は、社会によって強制されるのでなければ、労働者の健康と寿命にたいし、なんらの顧慮も払わない」

 ただしマルクスはすぐその後で「しかし、このこともまた、個々の資本家の善意または悪意に依存するものではない。自由競争は、資本主義的生産の内在的な諸法則を、個々の資本家にたいして外的な強制法則として通させるのである」と、付け加えるのを忘れませんでした。つまり「大洪水よ、わが亡きあとに来たれ!」というのは、資本家の性格が性悪だからそうなるといったものではなく、逆に、資本主義的生産の内的な法則性が競争を通じて資本家にそういった行動を取らせるのだというわけです。

 さて、そこでこの「大洪水よ…」ですが、「資本論」の注釈には「宮廷の奢侈が財政破滅を招くと忠告されたときに、フランスのルイ15世の愛人ポンパドゥール夫人がノアの洪水伝説にちなんで言った言葉の言い換え。デュ・オセ夫人『回想録』、序文、19ページ。『あとは野となれ山となれ』の意」とあります。

 5月19日の「今日のタックル」で「そういえばGWに神戸市立博物館で見た、豪華絢爛な夫人の「嗅ぎ煙草入れ」…あんなものを次々とつくらせてりゃ国家経済も破たんしますわなあ」などと書いたものですから(詳しくはhttp://www.miyamoto-net.net/column/diary/1211208142.htmlをご覧下さい)、「ポンパドゥール侯爵夫人」(飯塚信雄著、文化出版局)という本を古本屋で見つけ、買ってひととおり読んでみました。

 「ポンパドゥール侯爵夫人」は1721年パリの銀行家の娘として生まれ、子ども時代は「ジャンヌ・アントワネット・ポワソン」と呼ばれていました。1741年、19歳で徴税請負人のル・ノルマン・デティオールと結婚。「デティオール夫人」と呼ばれるようになります。ルイ15世がセナールの森で狩猟を楽しむ機会をとらえて、猛烈に王にアタック。1744年にはその美貌がルイ15世の目に留まり、彼女は「ポンパドゥール侯爵夫人」の称号を与えられて夫と別居し、1745年9月14日正式に公妾として認められました。

 ですから「ポンパドゥール侯爵夫人」というのは、決して「ポンパドゥール侯爵」の夫人なのではなく、彼女に与えられた称号が「ポンパドゥール侯爵夫人」なのです。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』などでは、ルイ15世の公式の愛妾(メトレス)となったポンパドゥール夫人は、「湯水のようにお金を使って、あちこちに邸宅を建てさせ(現大統領官邸エリゼ宮は彼女の邸宅のひとつ)、やがて政治にも口を出すようになる」とされており、そこから「大洪水よ…」の話も出てきたのでしょう。

 たしかにポンパドゥール侯爵夫人の存在は、フランス政府と王室の財政にとっては大きな負担でした。「ポンパドゥール伝」を書いたピエール・ド・ノラックによれば、夫人の城館を新設または増改築するための支出は、1745年から1764年まで、つまり王の「愛妾」であった全期間の合計で744万3千フランだったといいます。だいたい当時の1フランは今の5千円という計算だそうですので、ざっと372億円ほどになります。

 しかし…と飯塚氏は言います。この本が出版された当時にニュースになっていた日本住宅公団が京都府内で取得したという「役に立たない土地」の値段159億円に比べても2倍ほどではないかと…今ならもっと言えますね。「米軍向け『思いやり予算』の6分の1ではないか」とか、「橋下知事が止めようともしない『安威川ダム』総事業費1300億円の4分の1ではないか」とか、「関西空港二期事業1兆円あまりの、わずか30分の1ではないか」とか…。

 しかもポンパドゥール侯爵夫人の城館はすべて公金によってまかなわれたものではないそうです。たとえば「ウィキペディア」が指摘した「エリゼー宮」(当時は「オテル・デヴルーの館」と呼ばれた)は、夫人が750万フランの私財を投じて買い入れたものだそうです。夫人の財産は1751年に、2000万フランと評価されていたそうですが、夫人が死んだ時には200万フランの借金を残したのだそうです。

 そしてその散財が、当時のフランスに「ロココ様式」といわれる芸術やファッションを花開かせ、フランスの美術工芸産業をおおいに発展させたこと。またサロンを開いてヴォルテールやディドロなどの啓蒙思想家と親交を結ぶなど、学術・文化の発展にもおおいに寄与し、また芸術の熱心な愛好家、パトロンでもあったのです。こう見てくると「大洪水よ、わが亡きあとに」という言葉とだけ結びつけて、「ひどい女だった」などと見るのは、ちと気の毒な気がいたします。

 
 
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