「花は盛りに・・・」――吉田兼好「徒然草」と本居宣長「玉勝間」
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「花は盛りに・・・」――吉田兼好「徒然草」と本居宣長「玉勝間」

 昨日、川田亜子さんが5月21日のブログに、「徒然草」の第137段「花は盛りに…」を引用していることをご紹介しました。川田さんは、「徒然草に、『花は盛りに、つきはくまなきをのみ見るものかはとかいへるは、いかにぞや。』」と引用した上で、「兼好法師が徒然草で、『花は盛りの時のみ、月は曇りなく輝ている時のみを見るものであろうか。そうではない。』と。。。」と続けておられます。

 しかし、実は「徒然草」第137段原文は「花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。 雨に向かひて月を恋ひ…」となっており、「とかいへるは、いかにぞや」という言葉はありません。川田さんが引用したように続くのは、江戸時代の国学者・文献学者、本居宣長の随筆集『玉勝間』4の巻にある「兼好法師が詞のあげつらひ」(第231段)です。「けんかうほうしがつれづれ草に、花はさかりに、月はくまなきをのみ見る物かはとかいへるは、いかにぞや」と続きます。川田さんの紹介する「見るものであろうか。そうではない」という意味は、「徒然草」原文の「見るものかは。」で尽くされているのです。

 その後に続く「とかいへるは、いかにぞや」というのは「とか言っているのは、いかがなものであろうか」というほどの意味で、本居宣長の「玉勝間」231段は「兼好法師が徒然草で、『花は盛りの時のみ、月は曇りなく輝いている時のみを見るものであろうか。そうではない。』とか言っているのは、いかがなものであろうか」と異議を唱えているのです。そして、それに続けて吉田兼好の「みやび」を全面批判します。

 「いにしへの歌どもに、花はさかりなる、月はくまなきを見たるよりも、花のもとには、風をかこち、月の夜は、雲をいとひ、あるはまちをしむ心づくしをよめるぞ多くて、こゝろ深きも、ことにさる歌におほかるは、みな花はさかりをのどかに見まほしく、月はくまなからむことをおもふ心のせちなるからこそ、さもえあらぬ を歎きたるなれ、いづこの歌にかは、花に風をまち、月に雲をねがひたるはあらん」と宣長は言います。

 つまり「昔の歌の中に、桜の花の下では風が吹いて散らすのをうらめしく思い、月の夜は雲で隠れることを嫌い、あるいは満開や満月を待ち望み、その時期が過ぎるのを惜しむ気持ちを詠んだ情趣の深い歌が多いのも、みな、花は花盛りをゆっくりと見たいと思い、月は曇りなく美しいことを望む気持ちが強いからこそ、そのようにできないことを嘆いている歌が多いのだ」というわけです。

 そして「さるをかのほうしがいへるごとくなるは、人の心にさかひたる、後の世のさかしら心の、つくり風流(ミヤビ)にして、まことのみやびごゝろにはあらず」と結論づけています。宣長は「だから、あの法師が言ったようなことは、人の心に逆らった、後世の利口ぶっている心によるいつわりの風流であって、真の風雅な心ではない」と批判するのです。さらには、「すべてなべての人の願ふ心にたがへるを雅とするは、つくりごとぞ多かりける。」(総じて、世間一般の人が願う気持ちとは違うことを風雅であるとするのは、いつわりのものが多い)とまで言い切っています。

 吉田兼好「徒然草」と本居宣長「玉勝間」の、この二つの「花は盛りに・・・」は、よく対比して論じられます。川田さんは意識して「月は欠けているぐらいのほうが趣き深い」という兼好ではなく「そういう人の心に逆らった風流はいつわりだ」と指摘した宣長から引用した上で、「今宵はかけていく満月を堪能しますか。。。」と書いたかどうかはわかりませんが、これもまた感慨深いものがあります。
 

 
 
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