プロフィール 活動ダイジェスト たけしと語る たけしを語る
ムービー メールマガジン 国会論戦データ たけしの日記帳
東奔西走 お便り紹介 こぼれ話 トップページ
 

故・西滋勝先生のこと

 私が卒業もしなかった和歌山大学で、「恩師」と呼べる先生は、西滋勝(にし しげかつ)先生です。先生は1999年1月29日、73歳の生涯を閉じられました。

 1980年大学入学と同時に大学所在地とはまったく別の、大阪阪南地区で民青同盟の責任者となった私は、お世辞にもまともな学生ではありませんでした。

 1年次には30単位ほどとったものの、2年次にはさらに大学に足は遠のき、大阪・岸和田市にあった民青同盟阪南地区委員会事務所に寝泊りして活動していました。当時は民青同盟高校班が阪南地域のほとんどの学校に組織されており、私の母校岸和田高校にもずいぶん大きな民青同盟の班がありました。午後3時を過ぎると、高校生たちが事務所に集まってきます。班会をしたり、テスト前勉強会をしたり、毎日が目の回るような忙しさでした。

 和歌山大学教育学部には、当時は「留年」というものはありませんでした。だれでも4年まで上がっていき、そこで卒業できないだけです。ですから、そんな私でも3年次にはゼミに所属することになりました。私はそのとき迷わず西滋勝先生のゼミを選びました。理由は、当時新日本出版社から出ていた講座「日本の教育」というシリーズがあり、その別巻、「教育諸潮流の批判」の中の「解放教育」批判を西先生がお書きになっていたからです。

 当時はまだ部落解放同盟などが「解放教育」理論を振りかざし、日本共産党や民青同盟にたいして「日共差別者キャンペーン」を繰り広げていたときでしたから、私はこの西先生の解放教育批判論文を読んで、いっぺんで西先生に心酔しました。何と論がたち、切れ者の学者なのだろうかと…。そういうわけで西ゼミに入ることになったのです。

 私は大学にはあまり行きませんでしたが、全学連が「学費値上げ反対」などをかかげて、全国学生統一ストライキをよびかけ、和大教育学部自治会でもストをすることになったりした場合は、必ず大学に行きました。「スト破り」はしたことがありません。それから、最初はゼミには出ていました。教育学という学問は好きでしたし、西先生の人柄に惹かれたからです。

 西先生は、解放教育批判の論文を読んで想像した人とはあまりにも違っていました。語り口も静かで温厚で誠実、この人が本当にあの辛らつな批判論文を執筆したのかと信じられない思いでした。西ゼミでは「小川太郎教育学著作集」を使って集団主義教育を徹底して学びました。

 私は当時マルクス主義教育学の理論問題に傾倒していて、わかりもしないくせに、東ドイツの教育学者、ハインツ・カルラスの『マルクス主義教育学の構想』(Die Grundgedanken der sozialistischen pädagogik in Marx' Hauptwerk"Das Kapital")とか、ゴッホルト・クラップの『マルクス主義の教育思想』(Marx & Engels über die Verbindung des Unterrichts mit produktiver Arbeit und die polytechnische Bildung.)とか、芝田進午氏の『人間性と人格の理論』などという難解な本を読んでおりました。

 西先生は、生半可な聞きかじりで生意気なことを言う私のような学生にも優しく誠実で、対等に扱ってくださいました。ゼミ合宿で金沢大に行ったり、コンパでへべれけになって西先生のお宅に転がり込んで泊めてもらったり…。その頃先生は教育学部長になられて、よく酒を飲むと「宮本君、時代は変わったもんや、なんせこの西滋勝が学部長やからなあ。アッハッハッハ〜」と甲高い声で笑われるのです。いかにも痛快という様子で…

 それでも私は大学には行かなくなりました。地区委員長をつとめる阪南の民主青年同盟の組織が大きくなり、どうしても地区委員会に専従者を配置する必要が出てきたからです。大学は当然のことながら4年間では卒業できず、5年目に私は大学に籍を残したまま、民青同盟の専従者として働き始めたのです。

 8年が経過し、大学から「除籍」の連絡が来たときには、私はすでに28歳。日本民主青年同盟大阪府委員会常任委員で、すでに前年には結婚をしていました。大学には何の未練もなかったですが、西先生にだけは申しわけなくて、「とても先生に合わせる顔がない」との思いでした。ですからそれ以来、先生にはお会いしていません。

 私が参議院議員に当選した頃、西先生がご病気であるとの報せが届きました。しかも先生はすでに認知症で、奥様の顔さえ覚えていらっしゃらないとのこと…とても私などがお見舞いできるような状況でも、立場でもありません。そして1999年1月29日、ついに先生は永眠されたのです。

 2000年8月6日、先生が亡くなって1年半後に、和歌山で「西先生を偲ぶ会」が開かれると聞き、「私のような不肖の学生が…」との思いを持ちつつ、参加させていただきました。そこでは奥様から、亡くなる前の先生のご様子をお伺いしました。最愛の奥様にさえ「あんた誰や」と…しかし先生の母校京大(第三高等学校)の寮歌「紅萌ゆる」を歌うと。口ずさむこともあったとか…

 その「西先生を偲ぶ会」では、先生が生前お書きになったものを三題、パンフレットにして配られました「貫く棒の如きもの」という表題がつけられてありました。その一つ、1965年9月「はぐくみ」40号に先生がお書きになった「教育雑感」に次のようなくだりがあったのです。

 「教師の人間性のぬきとりがやられますと、今度は先生自身が子どもたちを人間と見、人間として扱うことを忘れはじめます。これはおそろしいことです。生きた人間が、まるで『番号』にみえてきたりするのです。あれは全校で一番だよ、あの女の子はかしこそうな顔をしているが68番だよ、あの鼻たれ小僧はビリケツの481番、てな具合です。一体、人間というものがこんな取り扱いを受けていいものでしょうか。人間が番号としてしか取り扱われない、それが人間を評価する最高の基準だなんて、人間に対する最高の侮辱ではないのでしょうか。」

 そして先生はそれに続けてこう書いておられます。
 「ビリケツの鼻たれ小僧が全校一の秀才より人間として劣っているという根拠はどこにあるのですか!ビリケツの坊主が世の中にでて、貧しい人々の味方になって献身的に働いているのに、全校一の秀才はソファーにふんぞりかえって、働く人々をアゴで使いまわさないと誰が保障できますか!一体、どちらの生き方が人間として値打ちのある生き方なのでしょう。」

 私はここまで読んで、あふれる涙を止めることはできませんでした。「申しわけない、私はそんな先生から卒業証書を受けることもできなかった、本当に出来の悪い学生でした」と何度も何度も、心の中で先生に詫びました。というわけで私は、先生のご存命中に先生からついに合格点をいただくことはできなかった学生です。

 先ほどの先生の文章は、こう結ばれています。
 「このような立場を、なおアカだ、偏向だと非難する人たちがいるとしたら、私は静かにこう申しあげる他ありません。『どうぞご自由に何とでもおっしゃって下さい。でも、私たちは自分たちの立場に、人間として、最高の誇りを感じております』と。」
 先生は「私の遺体に赤旗を被い火葬するように」とのご遺志どおりに葬られました。

 

 
 
Copyright (C) 2001 TAKESHI MIYAMOTO All rights reserved. 本サイトの内容を無断で複写複製することはできません。