終戦記念日の街頭演説、オリンピックと戦争・・・
今日は15年にわたった侵略戦争、アジア・太平洋戦争の敗戦から63回目の終戦記念日でした。吉井英勝衆議院議員や山下よしき参議院議員、そして山口勝利大阪府委員長とともに、大阪駅第一生命ビル前から日本共産党大阪府委員会としての終戦記念日の街頭演説にたちました。司会は昨年のいっせい地方選挙で福島区から見事トップ当選した清水ただし大阪市会議員。
今年の終戦記念日は、北京でのオリンピックの開催中に迎えました。北京では毎日、世界中から集まった世界最高水準のスポーツ選手・アスリートたちが熱戦を繰り広げています。昨日は男子競泳の200メートル平泳ぎで、日本の北島康介選手が金メダルを獲得し、同100メートル平泳ぎとあわせて2大会連続2冠を達成した話題でもちきりでした。体操個人総合での内村航平選手の健闘と銀メダル獲得にも拍手を贈りたいと思います。
毎日オリンピックの熱戦に声援を贈りつつも忘れてはならないのは、オリンピック精神やスポーツの健全な発展にとって、平和が不可欠だということです。いうまでもなく平和であってこそ国民みんながスポーツに親しむことができるし、戦争ほどスポーツをゆがめ、選手の命まで奪い、その発展を阻むものはありません。日本がおこなった侵略戦争、アジア・太平洋戦争と第二次世界大戦では多くのスポーツ選手の命が無残にも奪われました。 プロ野球界に、今も「沢村賞」というかたちで名前を残している巨人の沢村栄治投手は、その犠牲者の一人です。沢村さんは1917年に三重県に生まれ、1934年夏の甲子園での高校野球全国大会(当時は「中学野球」)の終了後に高校を中退して巨人の基礎となった全日本チームに参戦。1934年12月に静岡県草薙野球場で開かれたアメリカメジャーリーグ選抜軍との対戦で、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリック、ジミー・フォックスを三振にしとめるなど好投を見せ、一躍スターになりました。 3度のノーヒットノーラン(うち1回は完全試合)を達成するなど、黎明期の巨人、日本プロ野球界を代表する速球投手として名を馳せましたが、最初の徴兵によって中国の戦地に送られ、野球のボールの3倍もの重さのある手榴弾を投げさせられて肩を痛めてしまいます。戦闘中に左手を銃弾が貫通する負傷やマラリアにも感染し(復帰後、何度か球場で倒れました)、その後はオーバースローからの速球を投げられなくなりました。 それでも不死鳥のようによみがえり、コントロールを武器に3度目のノーヒットノーランを達成しましたが、またも徴兵。2度目の徴兵の後は、武器としていたコントロールも失って好成績を残すことができなくなったことから、もはやマウンドに立てなくなりました。またプロ野球自体が戦争の影響で1944年のリーグ戦をもって中断。1944年、陸軍伍長として3度目の応召中の12月2日、乗っていた輸送船が台湾沖の東シナ海で米潜水艦により雷撃され、ついに戦死。享年27歳でした。 戦後1947年7月9日、巨人は沢村選手の功績をたたえて背番号14番を日本プロ野球史上初の永久欠番に指定し、また同年、その功績と栄誉を称えて「沢村賞」が設立されるとともに、1959年には「野球殿堂」入りを果たしました。戦争で無残に命を奪われたプロ野球選手は、沢村選手以外にも、同じく巨人の吉原正喜選手や「名古屋軍」の石丸進一選手、後藤正選手など、69人とされています。 オリンピック選手では、1936年のベルリン五輪の陸上・棒高跳びで、激闘の末、西田修平選手と大江季雄選手が2、3位に入賞。帰国後、2人は銀と銅のメダルを2つに切ってつなぎ合わせ、激闘の思い出にした話は有名ですが、この大江選手はのちにフィリピンの上陸戦で戦死。そのほかに五輪選手の戦没者は、陸上8人、水泳13人、サッカー4人、ホッケー3人、ボート2人など、合計34人にのぼるといわれています。 そもそも戦争はオリンピックを開催できなくしました。1916年にドイツのベルリンで開催される予定になっていた第6回大会は、直前に第一次世界大戦が始まり、ヨーロッパが戦火に包まれる中、開催不能におちいりました。1936年の第11回ベルリン五輪がナチス・ヒトラーによって政治的に利用されたというのは有名な話ですが、その4年後の1940年第12回大会は東京で開催される予定になっていました。1940年は「紀元2600年(神武天皇が即位して2600年)」に当たる記念すべき年で、戦前の日本政府は国家的祝祭を計画していたのです。 ところが1937年に日中戦争が勃発。オリンピックの開催が近づくにもかかわらず軍部の発言力はますます強まり、ついに1938年7月15日の閣議で「東京オリンピック大会の開催は中止されたし」との勧告を出して返上。IOCは急きょヘルシンキを代替地として開催準備を進めましたが、まもなくスターリンのソ連によるフィンランド侵攻が始まり、ついに第12回大会は中止となってしまいました。さらに、第13回大会はロンドンが開催地として決定したものの、開催地決定からまもなくヒトラーによるポーランド侵攻を引き金に第二次世界大戦が始まってしまい、再び中止せざるを得なくなりました。 日本による侵略戦争と二度にわたる世界大戦は、多くのスポーツ選手の夢を奪い、尊い命まで奪いました。戦争とスポーツは両立しません。だからこそ「オリンピックは平和の祭典」ともいわれてきたのです。にもかかわらず、今回の北京オリンピックの最中にも南オセチアをめぐるグルジアとロシアの戦争が勃発するなど、残念ながらいまだに地上に戦火は絶えてはいません。それでも、すぐさま国連の潘基文事務総長が「五輪停戦」を呼びかけるとともに、フランスなどが仲介に動き、停戦への動きが踏み出されました。 いま世界各地では、「すべての国の独立、主権、平等」、「相互の国内問題への不干渉」、「紛争の平和的手段による解決」などの原則を定めた東南アジア友好協力条約(TAC)に代表されるようなさまざまな平和の地域共同体がつくられ、力強い広がりをみせています。また、領土・領有権問題をはじめとする地域的な紛争や懸案事項についても、粘り強い外交交渉によって平和的解決をめざす方向こそが世界の大きな流れとなってきています。いわば、世界に先駆けて戦争を放棄した日本国憲法9条の先駆性がいよいよ明らかになりつつあるのです。 オリンピックでの選手たちの奮闘に声援を送りつつ、戦後63年目の終戦記念日にあたって、オリンピックとスポーツの健全な発展のためにも、日本国憲法を守り、平和を守り抜く決意を固めあいましょうと訴えさせていただきました。演説後、まっすぐ帰宅して、妻と二人でお盆の墓参り。
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