「多喜二祭」での不破講演や不破さんの「古典への招待」を読む
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「多喜二祭」での不破講演や不破さんの「古典への招待」を読む

 昨日は「ヘーゲル哲学研究会」で新大阪のホテルに宿泊。昨夜は「精神の概念」をめぐって午前1時ごろまで話が弾みました。さて、この間電車移動の時間を使って、またまた相当本を読みました。一つは前衛5月号に掲載された不破哲三さんの「小林多喜二、時代に挑戦した五年間――『1928年3月15日』から『党生活者』『地区の人々』まで」という講演録。

 これは去る2月28日、「小林多喜二没後75年、第20回杉並・中野・渋谷多喜二祭」にて行われた講演を整理したもの。不破さんはこの間の科学的社会主義の理論研究でも「マルクスやエンゲルスの自身の歴史に即してマルクスやエンゲルスを読む」という問題意識を貫いてこられましたが、今回の不破さんによる多喜二論は、まさに「多喜二を多喜二自身の歴史の中で読む」というものです。

 全体を通して読んでみて、マルクスやエンゲルスを研究する場合でもそうですが、不破さんが「自身の歴史の中で読む」と言った場合のぼう大な基礎研究のすそ野の広さに舌を巻かされます。著作はもちろん日記類や手紙類、多喜二の場合は同時期に活躍した蔵原惟人さんや手塚英孝さん、澤地久枝さんが書いたものにまできちんと目を配り、厳密な論立てで一つひとつ論証していく手法はまこと見事というほかありません。

 今回の講演では、いくつもの新たな発見がありましたが特に印象に残ったのは、多喜二の「党生活者」をめぐって絶えず議論になる「笠原問題」と言われる女性観をめぐる問題です。私も最初に「党生活者」を読んだ時に、この主人公の笠原という女性に対する態度にはたしかに違和感を覚えたものでした。それを今回不破さんは、まず多喜二自身の地下生活の実態とはまったくかけ離れた、作品上の設定であること、「党生活者」には続編が予定されていたことを明らかにするとともに、多喜二はなぜこのような架空の設定をあえてしたのかについても、不破さんなりの推論を展開しています。

 同時に、不破さんの最新刊「古典への招待」(上巻)もほぼ読み終えました。これも色々学ぶことの多い著作ですが、新鮮な感動を一つ…。第五講のマルクス『経済学批判』への「序説」のところで「経済学の方法について」が論じられています。「経済学の一般的諸規定」の問題や、よく言われる「下降的方法と上向的方法」についてのくだりです。これを読んでいてピンときました。これは良い意味でも悪い意味でもマルクスにおける「ヘーゲルのしっぽ」なんですね。だって昨夜やったヘーゲル「精神哲学」に出てきた「精神の概念」における論の運び方と相似形なのです。

 ヘーゲル曰く「精神の概念を確定するためには、われわれは(理念を精神として存在させるところの)規定性を説明することが必要である。しかしあらゆる規定性は、もっぱら他の規定性に対立して規定性である。精神一般の規定性にはさしあたり自然の規定性が対立する。それ故に精神一般の規定性はもっぱら自然の規定性と同時にとらえることができる。精神の概念を他から区別する規定性として特色づけられなければならないものは観念性である。すなわち理念の他在を廃棄することであり、理念が自分の他者から自己へ復帰することおよび復帰していることである」(船山訳、岩波文庫、上巻P.22、カッコ内は原書から改訳)

 私自身、参加の濃淡はあっても、もう20年ほど参加させていただいている鰺坂先生との「ヘーゲル哲学研究会」。マルクスやエンゲルスの古典を理解する上でも、なかなか力になることを発見したできごとでした。 

 

 

 
 
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