故・姫井敬治さんの告別式に参列、告別式に流れた「赤旗のうた」
去る2月13日、日本共産党元豊中市会議員で大阪8区から衆議院選挙にも立候補された姫井敬治さんがお亡くなりになり、本日吹田市内でとりおこなわれた告別式に参列させていただきました。姫井敬治さんは1934年大阪市東淀川区(現淀川区)元今里に生まれ、14歳で豊中市に転居。府立豊中高校卒業後、豊中信用金庫(現「水都信金」)に就職。仲間たちと労働組合を結成し、その初代執行委員長に就任されました。
その後31歳で日本共産党に入党。労働組合活動の先頭に立つなかで職場を不当解雇され裁判闘争。84年には全面勝利を勝ちとりました。この間、71年に日本共産党から豊中市議会議員に立候補して初当選、以来7期連続当選。28年間にわたって市会議員として市民の命とくらしを守ってたたかい抜いてきました。議員在任中、市議団幹事長や各常任委員会の委員長、市議会副議長を歴任。1999年に後進に道を譲って引退された後も、衆議院大阪8区候補者として、日本共産党の躍進めざし、その先頭にたってたたかってこられました。
私は姫井さんご本人にも大変お世話になりました。私がまさに98年参議院選挙に勝利させていただいた、その時の衆議院8区候補者が姫井さんで、よくご一緒に豊中で訴えさせていただきました。また、お二人の息子さんとも懇意にさせていただき、喪主をつとめられたご長男の敬一さんとも二男の二郎さんとも友人同士です。敬一さんは自治体労働組合の幹部活動家としてご活躍ですし、二郎さんは先日まで日本民主青年同盟の中央委員長をつとめておられました。
告別式の会場には、姫井さんが二人のお子さんが小さい時、いっしょにお風呂に入るといつも歌っていたと紹介された「赤旗の歌」が流れ、棺には赤旗がかけられてありました。そういえば、うちの親父も昔よく歌っておりました…「赤旗の歌」。「民衆の旗、赤旗は、戦士の屍を包む。屍かたく冷えぬ間に、われらは旗を染める。高く立てよ赤旗を、その影に死を誓う。卑怯者去らば去れ、われらは赤旗守る」という歌詞です。私も忘れられません。
今日の日本共産党の到達点は、姫井さんをはじめとする諸先輩たちが幾多の困難を乗り越え、それこそ党の旗のもとに「死を誓う」覚悟でたたかい抜き、きりひらいて下さったものです。告別式には姫井さんのたたかいの足跡を記した年表や資料とともに、私も掲載された「比例代表近畿ブロック予定候補」のリーフレットが配布されていました。姫井さんは最後まで、私のことを気にかけて下さって、「来る総選挙では必ず宮本を」と話して下さっていたとのこと…胸が詰まりました。
告別式に配られた資料には、姫井さんの年表の中に、わが党が豊中で獲得した国政選挙などでの得票が記されてありました。昭和35年(1960年)衆・横田甚太郎2281票から始まっています。昭和37年参・東中光雄3919票、38年衆・横田5804票、40年参・東中8353票、42年衆・横田10510票、43年参・東中15938票と続きますがすべて落選でした。それが昭和47年(1972年)の衆議院選挙では初めて3万票を超える得票で村上弘さんが当選したのです。
しかし豊中で3万票というのは容易なことではありませんでした。その後80年代以降は、その村上さんも、あのくつぬぎタケ子さんでさえ3万票を獲得したことはありませんでした。それを姫井さんをはじめとする豊中のみなさんは1998年参議院選挙では30079票という大量得票で私を参議院に押し上げて下さったのです。2000年の総選挙、姫井さんの得票も29649票という立派なものでした。
偉大な先輩の告別式にあたり、その足跡をしっかりと受け継いで、来る解散・総選挙で、必ず日本共産党の議席の前進をかちとる決意を固めました。故・姫井敬治さんのご冥福を、心よりお祈り申し上げます。
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