「二度と読みたくない、だが一度は読んでほしい」--川田忠明著「それぞれの『戦争論』」を読んで(大阪民主新報2004・8・29付)
「どこの国の国民だ!」「何百年詫びれば気が済むんだ!」…今年5月26日、参議院本会議場において、わが国の過去の侵略と植民地支配の未清算を指摘したわが党議員に対して民主党の若手議員が投げつけたヤジである。私は思わず「何百年もたってないじゃないか!」と返したが、暗澹たる気持ちでこのヤジを聞いた。
参議院憲法調査会に身を置いた3年間、自民党からも民主党からも、憲法9条が「時代に合わなくなった」という議論とともに、「いざというときには、国を守るために戦う覚悟が必要」などという言葉が平気で語られてきた。
この人たちは「戦う」とはどういうことか本当にわかっているのだろうか、わが国が現実に「戦った」直近の実例は、まさに太平洋戦争以外の何ものでもない。この戦争の実態を知ろうともしないものに、戦争を語る資格はない。
そんなことを強く感じていたおりに、川田忠明著「それぞれの『戦争論』」(唯学書房刊)に出会った。著者は私と同じ歳で、青年運動をともに担った間柄でもある。世界30ヶ国以上を訪れ、世界平和評議会書記や日本平和委員会理事、原水協理事などを務める、今やこの分野の第一人者である。
著者は「戦争のイメージを創りなおす」と言う。「戦争には爆弾が炸裂する音、骨が砕ける響き、裂けた肉とともに散布する血の色、そして硝煙と死体の朽ちていく臭い、それらすべてを包む憎しみと怨念がある」と指摘した上で、「戦争について語ろうとするならば、人間の生命と生活、人生の破壊をともなうこの行為がどのようなものなのか、そのリアルなイメージが必要」ではないかと問いかける。
湾岸戦争以来、テレビで流される戦争の姿は、まるでテレビゲームの画面を見ているような映像であったり、ペルシャ湾上の艦艇からの巡航ミサイル発射場面ばかりだ。このミサイルの着弾点ではいったいどのような光景が繰り広げられているのか、戦争は決してテレビゲームではなく現実にミサイルが撃ち込まれた場所では人間の身体が吹き飛び、肉や骨が砕け散っているのだ。
著者は「戦争」という現実から目を背けるなと言い、広島・長崎の被爆の実相、南京大虐殺やベトナム戦争、イスラエルとパレスチナの紛争、ナチによるユダヤ人のホロコーストや沖縄戦の実態、イスラエルによるパレスチナ占領やアメリカによるイラク占領についても生々しい証言を次々と並べている。現に殺戮の現場を目の当たりにした方々の言葉は重く、圧倒的な力がある。
私は読みすすめながら、率直に言って「このような話はもう二度と読みたくない」と心底思った。しかし、それ以上に「戦争について語ろうとするものは、誰でも必ず一度はこの本を読まねばならない」とも思った。著者が述べるように「より良い未来への営みは、この人間の殺戮という行為への嫌悪感や拒否感を忘れたところには存在しない」と思うからである。
今年も8月15日がやってきた。私は毎年、終戦記念日の前日の14日に京橋駅で執り行われる「京橋駅空襲被災者慰霊祭」に参列させていただいている。終戦を翌日に控えたこの日12時30分頃、陸軍造兵廠を爆撃した米軍機が投下した数個の1トン爆弾によって、京橋駅は一瞬のうちに焦土と化し、数百名の方がその尊い命を奪われた。 例年と同じく読経が流れ、参列者が焼香に立つ間、私はふと、吹き飛び崩れた駅舎、アメのように曲がった線路、瓦礫に埋まる死体、幼児を抱えるようにして無言の死を遂げた母子の悲惨な姿、あちらこちらに飛び取る手足や肉片、両足を切断されて必死に助けを求める人、身体が土砂の下敷きとなり顔だけ出して絶叫する人、正に断末魔の叫びが飛び交う生き地獄を見た気がした。
「二度と見たくない、だが決して目をそらせてはならない」――それがわれわれ残されたものの責任ではないだろうか。この本はわれわれにそれを訴えているのである。「戦争を知らない」ばかりか「戦争を知ろうともしない」無責任な国会議員を生まないためにも。
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