日本共産党元参議院議員 くつぬぎタケ子先生のご葬儀に参列
正午から西淀川区姫島の姫島会館でとりおこなわれた、故・くつぬぎタケ子先生のご葬儀に参列、先生にお別れを申し上げました。くつぬぎタケ子先生は、日本共産党元参議院議員で元中央委員。去る6月10日、午前11時20分、腹部大動脈りゅう破裂のためお亡くなりになりました。
先生は1922年7月7日大阪府阪南町(現阪南市)に生まれ、1946年4月、日本共産党に入党。50年党員。第14回党大会で中央委員に選出されました。
医師から1955年4月大阪市会議員選挙で初当選、以後5期18年大阪市議を歴任。1973年6月17日の参議院大阪地方区補欠選挙(定数1)で自民党候補をうち破って当選。「世直し名医」と呼ばれました。その後、1977年、1986年の大阪選挙区選挙でも当選。
通算3期つとめ、この間、逓信、決算、社会労働委員などを歴任。とくに公害環境問題を一貫して追及。また「サービス残業」という言葉を初めて国会で使って質問しました。党大阪府委員会名誉役員。
実は私とくつぬぎ先生との出会いは、私がまだ岸和田高校在学中の1977年参議院大阪地方区選挙の時ですからもう28年前のことになります。先生の宣伝カーが南海岸和田駅に来られ、演説をされるというので私は学校帰りに聞きに行きました。
演説を終えられ宣伝カーから降りられた先生は、学生服姿の私を見ると握手して下さり、「あんた岸高か?」と聞かれました。「はい」と答えると「私も『岸和田高等女学校』やったんやで、私らの時は岸高は『岸和田中学』と言うてなあ、女は岸高へは行かれへんかったんや。『岸和田高等女学校』というのは、今の和泉高校や。岸高やったらあんた優秀やな、がんばりや」とおっしゃいました。
73年の参議院補欠選挙、定数一を争う選挙を制し「大阪の女赤ヒゲ」「世直し名医」の異名をとるくつぬぎタケ子参議院議員にそのような言葉をかけられるとは思いもよりませんでしたので、緊張し、ただただ恐縮しつつも、とてもうれしかったのを昨日のことのように覚えています。
その私が、それから21年後の98年、6年前に先生が失った大阪選挙区の議席を、自民党から奪い返し、お預かりしようとは夢にも思いませんでした。このとき、73年から83年まで10年間先生が持っておられた議席は山下よしきが、そして86年から92年までつとめられた議席は私、宮本が、しっかり受け継ぐことになったのでした。
ご葬儀に参列して、無念でならないのはその大阪の議席が両方ともわが党のもとにないことです。くつぬぎ先生のご遺影の前で自らの力不足を心からお詫びし、先生の不屈の闘志を受け継ぐことをお誓い申し上げました。
先生は83年に議席を失ったとき、「岩をこじ開けてでも」との闘志で3年間、臥薪嘗胆の努力を貫かれ、ついに86年、ふたたび議席を奪還されました。われわれが先生から学ぶべきは、正にこのことでなければなりません。
「岩をこじあけてでも」・・・2007年参議院選挙は大阪選挙区の議席を、必ずもう一度奪い返す選挙です。
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